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中間知識のブリコラージュへ

野村一夫『ゼミ入門』から「中間知識論」抜粋

去年刊行した『ゼミ入門』(文化書房博文社)の一節を引用します。これは大学新入生のための入門書ですが、その人たちを指導する先生たちにも語りかけています。これから、ここを掘り下げていく予定です。乞うご期待!

 

■中間知識論
 今の時代背景としては、一つのことしかできない人は生きづらいのではないか。時代の傾向としては「何でも対応できる」「つぶしがきく」ことがかなり重い意味を持つようになっているように思う。
 一芸だけの「専門家」でも、それ以外のことは何にも知らないし関心もないといった人は、「○○一筋」としてテレビなんかで賞賛されることも多いが、それを取材し伝える側は、毎日異なるジャンルの「一芸」を持っている人の取材をしているのである。人文社会情報国際系の人は、この「伝える側」の方に立つことが多いのではあるまいか。そのとき専門家でも素人でもない「教養ある社会人(物知り・見識ある市民・事情通)」であることに意味がでてくる。
 ただし「教養」という言葉を使ってしまうと「教養主義」というのが絡んできて、古色蒼然たる、やおら重い言葉になってしまう。
 そこで勝手に造語すると「中間知識」というレイヤー(層)があるのだ。学術的知識から見ると二次的情報になるが、常識のレベルよりも一段高度な水準の知識である。知識のレイヤーをざっと並べてみよう。ただし、どれが上にあるか下になるかはわからない。一応、大学という場所での順位を想定して並べてみると、こうなる。
・学術的知識(専門的知識)
・中間知識(総合教養)
・その時代・その地域に妥当な常識
・特定領域でのみ妥当な特殊な知識(宗教の教義、職人わざ、先端的芸術、職場のノウハウなど)
・おそらく妥当性のない知識(うわさ、都市伝説、とんでも情報など)
 ここでいう「中間知識」は「媒介する知識」でもある。「つなぐ知識」である。それを豊富に利用できる人を「中間知識人」と呼ぶことにしたい。私たちは大学で「ただの若者」から「中間知識人」になるのである。
 もはや知識は特定のディシプリン(学問領域)から自由になっている。たとえば文芸批評家が思想界を主導していたりするのは、ディシプリンから自由に発言できる特権を公認され来たからである。もはやこの特権は、どんな人でも行使可能になっている。
 そういう意味では、学部生を「研究の奴隷」にする必要はなくなった。学問の継承者づくりは研究中心の大学院大学でやればよい。ふつうの大学の学部教育は「教養教育の原理」私の言葉で言うと「中間知識の原理」によって進められるべきだ。目標は研究者ではない。教養ある社会人(中間知識人)になることだ。そこから逆算して勉強していけばよい。